立教大学 GUIDE BOOK 2023
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「当たり前」を疑うことで世の中の捉え方が変わってくる055 「私が専門とする音楽社会学は、音楽を通じて社会を考える学問です。例えば、クラシックの作曲家ショスタコーヴィチの作品にはソ連共産党を賛美するプロパガンダ的な曲が多く、彼も体制派だと考えられてきました。しかし、後に『ショスタコーヴィチの証言』が出版されると、実は彼が共産党に対し批判的な思想を抱いていたという理解が広まり、曲のもつ意味合いまでもが大きく変わっていきます。このように、音楽を取り巻く社会環境の変化は、人々の音楽の受容の仕方にさまざまな影響を与えるのです」 井手口先生が研究対象とする音楽ジャンルは多岐にわたります。自身が学生オーケストラに参加していたことから、当初はクラシック音楽を対象としていましたが、修士時代にいわゆる「オタク文化」に出合ってカルチャーショックを受けて以来、「オタクと音楽」が大きな研究テーマに。コミックマーケットなどで売買される同人音楽に関連する文化を網羅的に調査した『同人音楽とその周辺:新世紀の振源をめぐる技術・制度・概念』(青弓社)という著書 現代社会にあふれる音楽。1980年頃に登場したポータブルプレーヤーは時間や場所を問わず音楽を楽しむという新しい文化を築き、近年ではサブスクリプションサービスの普及により、無数の曲を手軽に楽しめる時代が到来しました。しかし、少し時間をさかのぼると、レコード屋に足を運んでアナログ盤を購入し、それを部屋で繰り返し聴くのが当たり前でした。その当時と今とで音楽の聴き方は大きく変化しましたが、人々が音楽に対して抱く「意味」はどのような変遷をたどってきたのでしょうか。そうした音楽と社会のつながりについて、社会学部メディア社会学科の井手口彰典教授は思索を深めています。も上梓しています。また、子どもが生まれたことをきっかけに、近年は童謡にも関心を寄せているといいます。「1918年に雑誌『赤い鳥』を創刊した児童文学者の鈴木三重吉は、雑誌の中で明治期に作られた唱歌を低級なものとして批判し、新たに童謡の創作を提唱しました。それから100年が経った現在、童謡はすっかり『日本人の心のふるさと』になっています。しかし、私はその事実に違和感を覚えました。流行歌は世代によって全く異なる一方で、童謡はどの世代も共通して知っている。そこに作為的なものを感じたのです」  井手口先生は童謡の歴史をさかのぼり、童謡が「心のふるさと」に変化していく過程を調査。見えてきた時代や社会の変化、童謡の消費のされ方について考察し、『童謡の百年』(筑摩選書)を出版しました。 特にテーマを限定することなく、その時々に興味をもった事象を研究してきた井手口先生は、「日常の中のごく身近な事物」を研究対象にできることが社会学の大きな特徴だと語ります。「普段、何気なく接している『当たり前』だと思っているものの中にこそ、社会の特徴が強く現れます。私たちの常識は、実は自分が属している特定の社会に固有のものである場合が多い。異なる時代、異なる地域の社会には、私たちとは全く別の『当たり前』があります。しかし、私たちは自分にとっての『当たり前』を、いつでもどこでも通用する世界の真理であるかのように誤解したまま生活しています。社会学は、そうした凝り固まった意識を溶かす学問です。私自身、研究を続ける中で、自分の常識がガラガラと崩れる体験を何度もしてきました。それこそが、社会学研究の醍醐味だと思います」 目の前の常識を疑うには、視点を移すことが大切であり、社会学を学ぶことでそうした力が身につくと話す井手口先生。「物事を別の角度から見ると、全く異なる現象が浮かび上がってきます。童謡といえば『夕焼け小焼け』のような古き良き時代の歌で、最新の子ども向けアニメの曲は童謡には含まれな『童謡の百年』は童謡文化の普及発展に寄与したとして第49回日本童謡賞・特別賞を受賞い、という認識は果たして正しいのでしょうか。『音楽によって生まれた一体感』という一見素晴らしいものの裏で、人知れず集団から排除されている人が存在してはいないでしょうか。社会学研究は、自分が刷り込みや固定観念にとらわれていることに気づき、そこから問いを立てることの繰り返しです。『日常』や『常識』の中に潜むあらゆる事象を再発見し、視点を移した先にある驚きを感じ取ることに意義があるのです」 井手口先生がクラシック音楽に熱中したきっかけは、自身の「キャラづけ」のためだったといいます。「中学生の頃は、みんなロックやヒップホップを聴いたりして、音楽によって自分らしさを強調し、周囲にアピールするものです。目立ちたがり屋だった私は周りとは違う個性を打ち出したく、あえて他の人たちが聴いていないクラシック音楽に手を出してみたのです。聴き続けているうちに本当に大好きになってしまったのですが(笑)」 しかし、現在では、音楽がアイデンティティ形成に与える影響に変化が生じつつあると井手口先生は考えています。「90年代頃までは多くの人が同じ曲を繰り返し聴いており、それが記憶とリンクして、青春時代の思い出をよみがえらせるという現象がありました。しかし、サブスクリプションの登場によって次々と新しい曲を聴けるようになった。そうすると、音楽が人生にもたらす作用も一様ではなくなり、結果的にアイデンティティとのつながりも今とは違う形になるかもしれません」「最先端の音楽文化を教えてくれるのはいつも学生。大きな刺激をもらっています」と語る井手口先生。そうして常に感覚を研ぎ澄ましながら、音楽と社会の関係を探り続けます。時代や社会環境の変化が音楽の受容の仕方に影響を及ぼす独自の経歴をアドバンテージにサブスクリプションの発達が音楽がもつ意味を変えつつある

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